はじめに
◆後漢朝が滅び、黄初元年(西暦220年)10月に魏朝文帝曹丕が建国した魏は、文帝の長子明帝曹叡の景初二年(西暦238年)8月に、将軍司馬懿を派遣して
公孫氏を討ち、公孫氏の帶方郡を支配下に入れたが、この明帝曹叡は、翌年の
景初三年(西暦239年)1月に、34歳で急死したため、幼年の養子斉王曹芳が
司馬懿の後見により、魏朝皇帝に就くこととなった。
すると、同年(西暦239年)6月には、この帶方郡の南の韓地から海峡を渡っ
た先(以下、「倭地」 という)に在る邪馬壹国の女王卑彌呼の使者が、倭 30国
を代表して、魏朝帶方郡の太守に詣り、魏朝への朝貢を求めて来たのである。
◆この倭 30国による自発的な朝貢は、魏朝において注目され、時勢の把握と
その対応の速さ、それも珍しい女王国であったこと等が、魏朝斉王の後見人
司馬懿の関心を引くこととなり、同年(西暦239年)12月には、魏朝(斉王)
によって、感状の詔書が下賜された。
そのうえ、呉との関係で早急に倭を味方に付けておくために、魏朝帶方郡か
ら使者を翌年正始元年(西暦240年)にも派遣して、邪馬壹国等 倭 30国を
答礼訪問するよう、決定された。
◆そのため、帶方郡では、魏朝が倭地方面への領土拡大を目論んでいるものと
見て、急遽、東夷調査官の倭地チームが編成された。
この倭地チームは、上記邪馬壹国等 30国への答礼訪問を、倭の領域・国力等
戦略的価値を知るための視察と理解して、本格的に現況を視察する計画を立
案し、そして、帶方郡の使者に随行して実際に見聞し、その結果を報告書に纏
めるという一連の任務に就くことになった。
◆視察後の報告書は、帶方郡太守を通じて魏朝に提出されたが、その後、魏朝郎
中の魚豢が史書 「魏略」 を著す際や、更に魏朝から禅譲された晋朝太康年間
(西暦280~289年)著作郎職史官の陳壽が史書 「三國志」 の魏書第30巻烏
丸鮮卑東夷伝倭人条(以下、「倭人の条」 という)を編纂する際に使用された。
ただ、上記報告書では必須であっても、史書 「魏略」 や 「三國志」 では不要と
されて多く割愛されたため、史書は、不明瞭さが否めないものとなった。
◆そして、今では、先の報告書や史書の原本は散逸してしまい、上記 「倭人の条」
についての後世の写本を覧るのみである。
そこで、倭人の小職は、先の報告書に記載されていた事柄を復元してみようと
思い、「倭人の条」 の写本(紹煕本)の内容を、東夷調査官ら実務担当者の当時
の視点で見直すことによって、「倭地視察の旅 邪馬壹国コース」 と題する報
告書スタイルの小編を作成することにした。
◆従って、本小編は、先の報告書では必須事項と思われる、「1.視察の目的」、「2.
時代背景」、「3.コース計画」、「4.視察結果」 と、この視察結果の一部でもある、
「5.『倭人の条』全文(倭訳・補足付き)」 と、「6.考察(後世比較)」、「7.まと
め」 とで構成し、更に、「3.コース計画」 では、「コース全貌」・「日程と行程」・
「水行と陸行」 に言及する内容にした。
◆すなわち、本小編では、正始元年(西暦240年)に帶方郡の使者に随行して実
際に倭地を視察することになった当時の東夷調査官ら実務担当者が、視察の
計画から結果報告までの一連の任務を遂行する際に、当然必要とされる事柄
を記述することによって、「倭人の条」 における不明瞭さをいくらかでも軽減
し、当時の倭をイメージし易くなったのではないかと思う。
倭暦平成 25 年 (西暦 2013 年) 6 月 20 日
倭暦平成 27 年 (西暦 2015 年) 9 月 20 日 改訂
倭暦令和 元 年 (西暦 2019 年) 6 月 20 日 改訂
倭暦令和 元 年 (西暦 2019 年) 12 月 20 日 改訂
倭暦令和 3 年 (西暦 2021 年) 6 月 20 日 改訂
倭暦令和 3 年 (西暦 2021 年) 9 月 20 日 改訂
魏朝帶方郡 東夷調査官
代行倭人 球磨コレノリ