2.時代背景

この視察の旅(西暦240年)における時代背景は、次の通り。

2.1 時代背景 (西暦240年は、後漢朝衰退後の混乱期)

中国では、西暦22010月に、後漢朝から禅譲されて、魏朝が成立した頃、
 呉も相次いで建国し、この三国で覇権を争う時代となった。

中国 後漢朝から禅譲されて、魏朝成立(西暦22010)
25 光武帝が、後漢朝を再興
22010 後漢朝が滅び、魏朝文帝曹丕(始祖は曹操)が、魏建国
221 4  蜀漢昭烈帝劉備が、蜀建国
22210 呉大帝孫権が、呉建国

魏朝は、西暦2388月、()後漢朝遼東郡太守であった公孫氏を滅ぼして、公孫氏
 が設置支配していた帶方郡を獲得し、太守を派遣して、韓地の支配と調査を進めた。

帶方郡 公孫氏帶方郡(西暦204~2388)魏朝帶方郡(西暦2388)
204 ()後漢朝遼東郡太守であった公孫氏が、楽浪郡の南に帶方郡を設置支配
238 8 魏の司馬懿が、帶方郡の公孫氏を討ち、帶方郡は、魏朝支配となる
 帶方郡の南に 3韓あり、東西は海、南は倭と接し、方可 4,000餘里(5倍数)
馬韓 伯濟国牟水国等 50餘国100,000餘戸平均2,000戸/国(5倍数)
辰韓 斯盧国不斯国等 12(辰韓中に混在する弁韓を弁辰という)
弁韓 弁辰盧国(倭と境界を接する)・弁辰狗邪国等 12国、弁辰鉄山
 辰韓と弁韓の戸数40,000~50,000戸/242,000戸/国(5倍数)
大国四五千家小国六七百家4,800家/24200家/国(5倍数)
:2,000戸/国:200家/国10:1「家」 は10 「戸」 の人数

西暦2396月、韓地の南に在る倭から朝貢の使者が来訪して来たため、魏朝帶方郡
 は、翌年(西暦2406)に、倭へ答礼訪問(この視察の旅)をすることになった。
 倭は、後漢朝に朝献(西暦107)して以来、倭国大乱(西暦146~189)を経験し、
 公孫氏の韓地支配(西暦204~2388)の間も、韓地の倭人が、辰韓の斯盧国を攻
 めて、辰韓中に弁韓の地を拡大し、弁辰狗邪国を倭の狗邪韓国とするまでになった。

倭人 韓地の南海岸やその近海遠海中に在る山島に居住
国邑 100餘国(後漢代)邪馬壹国等 30(魏代)
107 倭国王帥升らが、後漢朝安帝に生口 160人を献上
(190) 倭国大乱(西暦146~189)後、卑彌呼を、邪馬壹国女王兼倭王に共立
(208) 4  倭人が、辰韓の斯盧国国境に調査進出
(232) 4  倭人が、辰韓の斯盧国の都を包囲、斯盧国王は、倭人千餘の首を取る
(233) 5  倭人が、辰韓の斯盧国東辺を攻める
239 6  倭の女王卑彌呼の使者大夫難升米らが、魏朝帶方郡に来訪し、
    帶方郡太守劉夏を通じて、魏朝に朝貢
12 魏朝(斉王)による詔書を、倭に下賜(假授)


上記時代背景を踏まえ、この旅におけるリスク回避のためのポイントは、次の通り。

2.2 旅のリスク回避ポイント (この視察の旅を成功させるために)

 ● 倭の使者大夫難升米らが来訪時(西暦239)にもたらした最新の情報を尊重。
 ● 帶方郡から倭地へ安全に渡航する時期は、倭の使者の来訪時期と同じ 6月とする。
 ● 途中の韓地では、倭と戦争状態にあるという斯盧国等辰韓の領域内通行を避ける。
 ● 倭地では、邪馬壹国と戦争状態にあるという後述の狗奴国の領域内通行を避ける。
 ● 往復とも、倭の使者をガイド役にする。 (場合により、倭の使者を人質にする)
 ● 帶方郡の使者建中校尉梯儁らを護衛するためとして、将兵を示威同行させる。
 ● 旅の期間中、帶方郡の伝令が、帶方郡と倭の間で往来できるようにする。
 ● 旅の期間中、倭との争いを誘発しないよう、帶方郡使者一行の行動を規制。
 ● 不幸にして、使者一行の一部に災難が発生しても、旅を続行して目的を完遂する。
  (災難原因が、何であれ、この旅の結果報告が、次の旅のリスク回避ポイントになる)
 ● 不幸にして、使者一行全員が帰還できない事態に陥っても、倭との争いはしない。
  (使者の伝令が、不通になったときは、倭へ照会し、倭の応答次第で適切に対処する)


ページトップへ戻る