5.「倭人の条」 全文 (倭訳補足付き)

倭人の主たる国邑状況は、下記項目 5.1~5.10 の通り。

5.1 「倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」


倭人は、帶方()東南の大海の中に在り、山島に依り、もと100餘国の国邑を為し
て、漢の時に朝見する者があったが、今般、魏朝に使訳を通じて来たのは、30国。

直近で言えば、倭国王帥升らが後漢朝安帝劉に朝献して来た時(西暦107)
100餘国は、韓地の南海岸近海の巨済島、海峡の対馬壱岐、倭地の北海岸近海の
糸島、志賀島と周辺の多くの島々に在り、すべて、帶方郡東南の大海の中に在って、
山が海面から突出したような 「山島」 の国であった。
今般(西暦239)、倭の女王卑彌呼が使者を派遣してきた国邑数は、30国である。

● 倭人は、帶方郡の東南の大海の中にいる。
● 西暦107年頃の倭には、「山島」 の国が 100餘国あった。
● 今般、西暦239年の倭では、国数が 30国である。


5.2 「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里」


(帶方)郡から倭までは、海岸に沿って水行し、韓の国に寄港しながら、南に向かっ
たり東に向かったりして、倭の北岸の国の狗邪韓国に着く。 7,000餘里(5倍数)

今回の視察は、韓の国を訪問することが目的ではないので、
帶方郡から倭へ行くには、倭の使者の来訪ルートを逆に辿り、
倭と戦争状態にある辰韓の領域を避けるように、
魏船(郡使船)で韓地の西海岸に沿って南行し、
次いで、南海岸に沿って東行する間、馬韓諸国に寄港しつつ、
食糧水を補給しながら行った。
倭人は、韓地の南海岸に居住しているが、
倭人が韓地で国を為しているのは、その南海岸近海に在る狗邪韓国であるので、
帶方郡から倭まで 「從郡至倭」 というのは、
倭の狗邪韓国までの 7,000餘里(5倍数)を指す。
また、「其北岸」 とは、倭の北岸であり、倭の北限でもあるため、
韓地の情報は、韓地の倭人や狗邪韓国の伝令によって、倭地にもたらされている。
なお、「狗邪韓國」 の 「」 とは、
倭の国でありながら、韓地に在ることを示す 「」 であり、
史書 「三國志」 の魏書第30巻烏丸鮮卑東夷伝韓条にある 「弁辰狗邪國」 のこと。
すなわち、この 「韓条」 では、韓地に在る韓の諸国名には、「」 の表記を用いない。
また、「弁辰狗邪國」 の戸数は、韓条に記述された辰韓弁韓の総計 24国の
40,000~50,000(平均2,000戸/国)(5倍数)の戸数として略載している。

● 帶方郡から倭までは、韓地の海岸に沿って水行して、7,000餘里(5倍数)
● 帶方郡を発ち、韓の国に寄港しつつ南へ東へ向かい、倭の北限の狗邪韓国に着く。


5.3 「始度一海千餘里至對海國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶島方可四百餘里土地
     山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乘船南北市糴」


初めて、海を(南方向へ)對海国まで、1,000餘里(5倍数) 渡る。
(その国は)大官を卑狗といい、副(大官)を卑奴母離という。
居る所は、離れ島で、一辺 400餘里(5倍数) 程の正方範囲内であり、
土地は、山は険しく森林が多く、道路は獣道のようで、1,000餘戸(5倍数) ある。
良田がなく、海産物を食べて自活し、船に乗り南北に交易し米穀を買い入れている。

始度一海」 とは、上記項目 5.2 の 「循海岸水行」 のときのように、
退避できる岸がある 「水行」 とは異り、一気に海を渡り切ることを意味する。
大官曰卑狗」 の 「大官」 は、行政官で、
下記項目 5.4 の 「一大国」 の 「大国」、
下記項目 5.14・5.28・5.29・5.32・5.36 の 「大夫」、
下記項目 5.22 の 「大倭」、
下記項目 5.23 の 「一大率」 の 「大率」、
下記項目 5.20・5.21・5.24 の 「大人」 と同様、
」 が、倭王直属を意味する。
ここでの 「」 は、「副大官」 の意味で、以下、その 「大官」 の表記を省略した。
對海国の倭人は、「乘船南北市糴」 をするように、渡海操船技術に長じている。

● 狗邪韓国から次の對海国までは、南方向へ渡海して、1,000餘里(5倍数)
● 對海国には、行政官の大官(卑狗)と副大官(卑奴母離)がいる。
● 對海国は、離れ島で、一辺 400餘里(5倍数) 程の正方範囲内。
● 良田がなく、森林の多い 「山島」 に、1,000餘戸(5倍数) ある。
● 對海国の倭人は、「乘船南北市糴」 をするように、渡海操船技術に長じている。


5.4 「又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木
     叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴」


又、瀚海という名の海を南方向へ、一大国まで、1,000餘里(5倍数) 渡る。
(その国は)亦同じく、()官を卑狗といい、副(大官)を卑奴母離という。
(居る所は、離れ島で)一辺 300(5倍数) 程の正方範囲内であり、
(土地は)竹や木の林が多く、3,000許家(5倍数) ある。
田地に差があり、耕田なお食べるに不足し、亦、南北に交易し米穀を買い入れる。

又南渡一海」 として、上記項目 5.3 の 「始度一海」 も南方向の渡海であること
を示し、更に 「」 により、「所居絶島土地」 の表記を省略した。
一大国」 の 「」 は、「一大事一大発見」 の 「」のように、「特別」 の意味。
一大国」 の 「大国」 は、
上記項目 5.3 の 「大官」、
下記項目 5.14・5.28・5.29・5.32・5.36 の 「大夫」、
下記項目 5.22 の 「大倭」、
下記項目 5.23 の 「一大率」 の 「大率」、
下記項目 5.20・5.21・5.24 の 「大人」 と同様、
」 が、倭王直属を意味するので、「一大国」 とは、倭王直轄の特別国を意味する。
官亦曰」 の 「」 は、上記項目 5.3 の 「大官」 のこと、以下、「」 を省略した。
一大国の倭人もまた、「南北市糴」 をするように、渡海操船技術に長じている。

● 對海国から次の一大国までは、南方向へ渡海して、1,000餘里(5倍数)
● 一大国にも、行政官の大官(卑狗)と副大官(卑奴母離)がいる。
● 一大国は、離れ島で、一辺 300(5倍数)程の正方範囲内。
● 良田不足の林の多い 「山島」 の一大国には、3,000許家(5倍数) ある。
● 一大国の倭人もまた、「南北市糴」 をするように、渡海操船技術に長じている。


5.5 「又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無
     深淺皆沈沒取之」


又、海を(南方向へ)末盧国まで、1,000餘里(5倍数) 渡る。
(その国は) 4,000餘戸(5倍数) あり、
(土地は)海に迫った浜山で、草木が繁茂して、前が見えずに行く。
魚鰒をよく捕る人は、水の深い浅いに拘らず、皆、潜ってこれを取っている。

又渡一海」 は、上記項目 5.4 の 「又南渡一海」 と同じため、「又南」 を 「」 と
し、末盧国の大官についても、上記項目 5.4 の一大国の 「官亦曰卑狗副曰卑奴母
」 と同じで、冗長になるため省略し、同様に、「土地」 という表記も省略した。

● 一大国から次の末盧国までは、南方向へ渡海して、1,000餘里(5倍数)
● 末盧国にもまた、行政官の大官と副大官がいる。(表記省略)
● 末盧国は、海に迫った草木の多い 「浜山」 に、4,000餘戸(5倍数) ある。


5.6 「東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王
     國郡使往來常所駐」


東南方向へ、500(5倍数) 陸行すると、伊都国に着く。
(その国は)()官を爾支といい、副(大官)を泄謨觚柄渠觚という。
1,000餘戸(5倍数) あり、そこには、代々皆、女王国(邪馬壹国)に従属する王が
いて、郡使が必ず通って駐る所である。

副曰泄謨觚柄渠觚」 とあるのは、副大官 1名の名前である。
また、「郡使往來常所駐」 とあるように、伊都国では、郡使や物の出入を管理して
おり、魏船(郡使船)は、復路出発の日まで、この地に繋留しなければならない。
この旅では、上記項目 5.5 のように、末盧国に到着して、陸路中心の訪問視察
を開始したので、魏船(郡使船)を先に、伊都国の港に回送し、追って、末盧国から
伊都国の国都に向けて陸路を行った。

● 末盧国から次の伊都国までは、東南方向へ陸行して、500(5倍数)
● 伊都国には、行政官として、大官(爾支)と副大官(泄謨觚柄渠觚)がいる。
● 伊都国には、代々、邪馬壹国に従属する王がいて、1,000餘戸(5倍数) ある。


5.7 「東南至奴國百里官曰馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸」


東南方向へ奴国までは、(陸行して)100(5倍数)
(その国は)()官を馬觚といい、副(大官)を卑奴母離という。
20,000餘戸(5倍数) ある。

東南」 としたのは、上記項目 5.6 の 「東南陸行」 の続きで変わらず、
東南方向への陸行を意味し得るため、冗長になる 「陸行」 の表記を省略した。

● 伊都国から次の奴国までは、東南方向へ陸行して、100(5倍数)
● 奴国には、行政官として、大官(馬觚)と副大官(卑奴母離)がいる。
● 奴国には、20,000餘戸(5倍数) ある。


5.8 「東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家」


不彌国までの東(方向への陸)行は、100(5倍数)
(その国は)()官を多模といい、副(大官)を卑奴母離という。
1,000餘家(5倍数) ある。

東行」 としたのは、上記項目 5.6 の 「陸行」 の続きで変わらず、
東方向への陸行を意味し得るため、冗長になる 「」 の表記を省略した。

● 奴国から次の不彌国までは、東方向へ陸行して、100(5倍数)
● 不彌国には、行政官の大官(多模)と副大官(卑奴母離)がいる。
● 不彌国には、1,000餘家(5倍数) ある。


5.9 「南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸」


南方向へ投馬国までは、(河川)水行 20(5倍数)
(その国は)()官を彌彌といい、副(大官)を彌彌那利という。
50,000餘戸(5倍数)(ある)

水行」 とは、本来、河川の岸に沿っての運行を意味し、川舟を用いて、自力や曳航
で、川を遡上して、低地分水嶺を越え、その後、氾濫川流域の河川湿地を行く。
可五萬餘戸」 では、上記項目 5.3~5.8 にある 「」 の表記を省略した。

● 不彌国から次の投馬国までは、南方向へ河川水行して、20(5倍数)
● 投馬国には、行政官の大官(彌彌)と副大官(彌彌那利)がいる。
● 投馬国には、50,000餘戸(5倍数)程ある。


5.10 「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲
    支次曰奴佳可七萬餘戸」


南方向へ、女王の都する邪馬壹国までは、(河川)水行 10日と陸行 1(5倍数)
その国は、()官に伊支馬がいて、次(の大官)を彌馬升といい、
(の大官)を彌馬獲支といい、その次(の大官)を奴佳という。
70,000餘戸(5倍数)(ある)

上記項目 5.9 の 「水行」 同様、川舟を用いて、更に、氾濫川流域を山域の上陸地ま
で遡上し、次いで、上陸してからの 「陸行」 では、山域の登坂と峠越えを行なった。
可七萬餘戸」 では、上記項目 5.9 と同様に、「」 の表記を省略した。

● 投馬国から次の邪馬壹国までは、
 南方向へ河川水行して、10(5倍数) の後、陸行して、1(5倍数)
● 邪馬壹国には、
 行政官の大官(伊支馬)と次大官(彌馬升彌馬獲支奴佳)がいる。
● 邪馬壹国には、女王が都し、70,000餘戸(5倍数)程ある。


倭の女王の都する邪馬壹国までは、上記の通りであるが、倭地に在るその他の国邑
 は、下記項目 5.11~5.14 の通り。


5.11 「自女王國以北其戸数道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有已百
    支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次
    有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴
    國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境
    界所盡」


女王国(邪馬壹国)以北については、その戸数道里を略載できるものの、
その他の旁国については、遠方に離れていて、詳らかにできないが、
次に、斯馬国があり、次に、已百支国があり、次に、伊邪国があり、
次に、都支国があり、次に、彌奴国があり、次に、好古都国があり、
次に、不呼国があり、次に、姐奴国があり、次に、對蘇国があり、
次に、蘇奴国があり、次に、呼邑国があり、次に、華奴蘇奴国があり、
次に、鬼国があり、次に、爲吾国があり、次に、鬼奴国があり、
次に、邪馬国があり、次に躬臣国があり、次に、巴利国があり、
次に、支惟国があり、次に、烏奴国があり、次に、奴国(奴国分国)があり、
そこで女王境界が尽きる。

女王国(邪馬壹国)とそれより北に在る狗邪韓国對海国一大国末盧国伊都国
奴国不彌国投馬国の主要 9国については、既述のように、その戸数道里を略記
したが、邪馬壹国から更に南に在る遠隔地の 「其餘旁國」 の 21国については、
邪馬壹国を発って訪問した順に国名を列挙するのみで、その戸数道里を省略した。
なお、「奴國此女王境界所盡」 とは、倭の南限が 「奴國(奴国分国)であることを
示し、上記項目 5.2 の 「其北岸狗邪韓國」 が、倭の北限を示すことに対応する。

● 邪馬壹国から順次、その他の旁国21国に行くことができる。
● その他の旁国21国への順序は、斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、
 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、
 鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国(奴国分国)の順。
● 最後の奴国(奴国分国)が倭の南限である。


5.12 「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」


その(奴國此女王境界所盡)南に、狗奴国があり、
その国は、男子を王と為し、その官に狗古智卑狗がいて、女王に従属していない。

上記項目 5.11 の 「其餘旁国」 に在る奴国(奴国分国)の更に南に、狗奴国があり、
下記項目 5.34 に示すように、女王(邪馬壹国)とは、以前より争っている(素不
)ため、狗奴国の領域に入らず、奴国分国との国境に在る山上から遠望した。
狗奴国が奴国分国の南(倭地の南端)に在るのは、
先の戦争(倭国大乱)で、その地に追われた結果であり、奴国分国の監視下にある。

● 倭の南限の奴国分国の更に南には、倭に属さない男王の狗奴国が在る。
● 倭の女王と狗奴国の男王とは、この視察のとき(西暦240)より前から争い
 が続いていて、先の戦争(倭国大乱)で狗奴国を倭地の南端に追い込んでいる。


5.13 「自郡至女王國萬二千餘里」


(帶方)郡より女王国(邪馬壹国)までは、12,000餘里(5倍数)である。

ここでは、「自郡至女王國」 とすることにより、上記項目 5.2 において、
帶方郡より倭(倭の北限)までを、「從郡至倭」 としたことと区別した。

● 帶方郡から邪馬壹国までは、12,000餘里(5倍数)


5.14 「男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會稽
    斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沈沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾
    諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里當在會稽東治之東」


男子は、身分や年齢の上下に関わりなく、皆、顔や体に刺青をしている。
昔から、倭の使者が中国に詣ると、皆、大夫夏后少康の子であると自称した。
(少康の子は)會稽に封ぜられると、断髪し、身体に刺青をして、蛟龍の害を避けた。
今、潜って魚蛤をよく捕る倭の水人も身体に刺青をして、大魚や水禽を避けている。
(身体の刺青は)その後、次第に飾りになって、
諸国で身体の刺青は、左小と異り、身分の尊卑によっても差がある。
その道里の計(自郡至女王國萬二千餘里)は、會稽東治の東に在ることを示す。

倭の使者が自称する 「大夫」 とは、倭では、王の言葉を伝える大臣をいう。
夏后少康之子」 の子孫が、會稽から倭に移住したものと思われる。
夏后少康之子」 とは、商()の前の夏(夏后)の初代皇帝禹の後裔で、六代夏后帝
少康の庶子である無余のことで、會稽に封ぜられた後、その子孫が越王になった。
越は、紀元前334年に、楚によって滅ぼされ、そのとき、越人は、四散したとされる。

● 倭の使者が、身体に刺青をし、皆、大夫夏后少康の子孫であると自称するように、
 中国からの渡来人の 1つは、越人(越の遺民)
● 邪馬壹国の位置は、會稽東治の東に相当する。


倭に来てわかったことは、下記項目 5.15~5.25 の通り。

5.15 「其風俗不淫男子皆露以木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髮屈
    衣如單被穿其中央貫頭衣之種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵緜其地無牛馬虎豹羊
    鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與耳朱崖同」


倭の風俗は、乱れていない。
男子は、皆、被り物をつけずに、髪を縛り、木緜を頭に巻いている。
その衣は、横幅をただ結んでつないでいるだけで、殆ど縫うことをしていない。
婦人は、髪を被い、結っており、ひとえの夜着のような衣を作り、
その中央に穴を開け、頭を通して、これを着ている。
粟稲麻を植え、蚕を飼い糸を紡いで、麻織物絹織物を生産している。
倭の地には、牛鵲は、いない。
武器は、矛木弓で、木弓は、下が短く上が長く、竹矢は、鉄鏃か骨鏃を用いる。
ものの有無するところは、朱崖と同じである。

倭の地に、牛馬がいないので、この視察の移動手段に使えない。
倭の武器の矛盾は、魏と同様、既に、鉄製が普通になっているが、
木弓竹箭」 は、魏と異っており、
木弓」 は、長弓のような強い弾発力が得られ、しかも短い 「竹箭」 が使える
ように、「竹箭」 をつがえる位置が、「木弓」 の中央より下になっている。
そのため、下記項目 5.32 の 「木拊短弓矢」 として、追って、倭から献上させる。
諸々の文化水準は、魏より低く、呉支配(西暦238)朱崖の程度。

● 倭の地に、牛馬がいないので、移動手段に使えない。
● 倭の矛鏃は、魏と同様、既に、鉄製であるが、弓矢の構造は、魏と異る。
● 諸々の文化水準は、魏より低く、呉支配(西暦238)朱崖と同程度。


5.16 「倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體如中國用
    粉也食飮用豆手食其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭
    泣他人就歌舞飮酒已葬舉家詣水中澡浴以如練沐」


倭地は温暖で、夏冬によらず、生野菜を食べ、皆、裸足である。
部屋はあるが、父母兄弟の寝所は異る。
身体に朱丹を塗っており、中国で粉を使うようなものである。
飲食には、高坏を用い、手で食べる。
倭地の死では、棺は有るが、槨は無く、土を盛って、塚を作る。
死んで始めの 10餘日、死を悼む。
そのときには、肉を食べず、喪主は哭泣するが、ほかの人は、歌舞して飲酒する。
葬儀が終わると、その家のものは、皆、水中に入って、練沐のように、禊をする。

有屋室父母兄弟臥息異處」 のような住まいは、
下記項目 5.20・5.21・5.24 の 「大人」 のような身分の高い人の住まいである。
朱丹」 とは、下記項目 5.18 における 「」 から作られた装身用紅色泥土。
始死停喪十餘日當時不食肉・・・・・・・已葬舉家詣水中澡浴・・・・・・・」 であるから、
葬儀に 10餘日もかけるが、喪が明けるのは早い。

● 倭地は、魏韓地に比べて温暖。
● 身体に白粉でなく、商()代由来の丹から作られた装身用紅色泥土を塗る。


5.17 「其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名
    之爲持衰若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹」


倭での往來で、海を渡って、中国へ詣るには、
いつも 1人の人を、髪をとかさず、蚤や虱をとらず、衣服を垢で汚れるままにし、
肉を食べず、婦人に近づかず、あたかも喪に服している人のようにさせる。
それを名づけて、「持衰」 という。
もし、往く者の事がうまく運ぶと、共に、彼に生口財物を与え、
もし、病になったり、災難に会ったりすると、その 「持衰」 が謹まなかったとして、
すぐに、彼を殺そうとする。

上記項目 5.3~5.5 における渡海では、難破漂流の危険を伴うため、
往く者が災難を回避して、期待を裏切らず事を運び帰還を果たすようにするため、
倭地に残った一族の中から、男の人質を出させて、「持衰」 とする。

● 海を渡って、中国へ詣るには、倭地では、残った一族の中から、男の人質を取る。


5.18 「出真珠青玉其山有丹其木有杼豫樟楙櫪投橿烏號楓香其竹篠桃支有薑橘椒
    荷不知以爲滋味有猴黒雉」


倭では、真珠青玉を産出する。
山には、丹がある。
木には、豫樟橿烏號楓香がある。
竹には、篠桃支がある。
荷が有るが、これらが美味しいことを知らない。
黒雉がいる。

鉄や銅の鉱山はないが、「」 の山があり、その 「」 は、上記項目 5.16 における
朱丹(装身用紅色泥土)の原料であるが、これが、辰砂(硫化水銀)であることを
確かめるために、下記項目 5.32 の 「」 として、追って、倭から献上させる。

● 倭には、鉄銅の鉱山はなく、水銀が採れるが、産物について、魏に無い物はない。
● 倭では、用いない食材があり、魏と嗜好が異る。


5.19 「其俗舉事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火占兆」


倭の習俗では、行事や往来があれば、そのたびに、骨を焼いて吉凶を占う。
先ず占いするところを告げるが、その言葉は、「令龜法」 のようである。
火によってできた裂け目を視て、兆候を占うのである。

()代に行なわれた亀の甲羅を用いる 「令龜法」 が伝来したかのようであるが、
倭では、豊富な鹿の肩甲骨を用いて、太占(ふとまに)という。

● 倭に商()代に似た占いが用いられているように、中国からの渡来人の 1つは、
 商人(殷の遺民)


5.20 「其會同坐起父子男女無別人性嗜酒【魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲
    年紀】見大人所敬但搏手以當跪拜其人壽考或百年或八九十年」


倭の集會行動では、父子男女は、区別なく、生来、酒が好きである。
【魏略によれば、倭の習俗では、正しい一年四季を知らず、
ただ、春の耕作秋の収穫を計って、年紀としている、とある。】
貴人を見て敬うには、ひたすら拍手し、跪く拝礼をしなければならない。
倭人は、長寿で、(倭暦の2倍年暦)100歳 か 80~90(2倍数)である。

魏略曰」 にあるように、倭暦は、「正歳」 でなく、春の耕作と秋の収穫で区切って
年紀を決める 2倍年暦であるため、倭人の年齢は、2倍数になっている。

● 倭暦は、「正歳」 でなく、春の耕作と秋の収穫で区切って年紀を決める 2倍年暦


5.21 「其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不忌不盜竊少諍訟其犯法輕者沒
    其妻子重者沒其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服」


倭の習俗として、国の貴人は、皆、4~5人の婦人を持ち、
身分の低い人でも、あるものは、2~3人の婦人を持っている。
婦人は、淫らでなく、嫉妬することもない。
盗みをせず、訴訟は少ない。
法を犯して、罪の軽い者の場合は、その妻子を没収し、
罪の重い者の場合は、その家族と一族を没収する。
(家族と一族の)尊卑には、それぞれ序列があり、互いに、よく服従する。

倭では、「下戸或二三婦」 のように、一夫多妻であるのは、
下戸」 の壮年男子が、戦死するからであり、
自分の妻が居る 2~3戸を巡る妻問婚の形を採る。
また、「沒其妻子沒其門戸及宗族」 のように、「」 とあるのは、
妻子門戸及宗族」 を奴婢として、没収することである。

● 罪人の妻子家族一族を奴婢として、没収する連座制により、倭の治安は良い。


5.22 「收租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之」


税として、租(収穫物)や賦役(兵役)を収め、閣(倉庫)や邸(兵舎)がある。
国々には、市が有るが、交易の有無を、大倭に監視させている。

倭の全国にわたり、市が立つ所に、税務官の 「大倭」 を置いて、租税から漏れる
武器道具原材料衣服装身具宝石嗜好品密輸品等の交易を監視する。
税務官の 「大倭」 は、
上記項目 5.3 の 「大官」、
上記項目 5.4 の一大国の 「大国」、
上記項目 5.14 や下記項目 5.28・5.29・5.32・5.36 の 「大夫」、
下記項目 5.23 の 「一大率」 の 「大率」、
上記項目 5.20・5.21 や下記項目 5.24 の 「大人」 と同様、
」 が、倭王直属を意味する。

● 税として、租(収穫物)や賦役(兵役)がある。
● 市が立つ所に、税務官の 「大倭」 を置いて、租税から漏れる交易を取り締まる。


5.23 「自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣
    京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」


女王国(邪馬壹国)より北には、一大率を特に置いて、検察している。
諸国は、これを畏れている。
(一大率は)普段は、伊都国に勤めているが、国中では、刺史のような官職である。
(倭の)王が、洛陽京帶方郡諸韓国に詣らす使者を派遣したり、
(帶方)郡が、倭国に使者を派遣したりすると、皆、港で検閲し、
文書を伝送したり、賜物を女王に詣らしたりして、間違いを無くしている。

一大率」 の 「」 は、「一大事一大発見」 の 「」 のように、「特別」 の意味。
一大率」 の 「大率」 は、
上記項目 5.3 の 「大官」、
上記項目 5.4 の 「一大国」 の 「大国」、
上記項目 5.14 や下記項目 5.28・5.29・5.32・5.36 の 「大夫」、
上記項目 5.22 の 「大倭」、
上記項目 5.20・5.21 や下記項目 5.24 の 「大人」 と同様、
」 が、倭王直属を意味するため、「一大率」 で、倭王特任の検察将軍を意味する。
自女王國以北」 は、上記項目 5.11 の 「自女王國以北」 と同じ主要 9国のこと。
そこに、「一大率」 を順に派遣して、諸国の戦争反乱殺人窃盗訴訟脱税等の
検察地方官の査察を行なう。
上記項目 5.6 において、伊都国を 「郡使往來常所駐(郡使が必ず通って駐る所)
と記述したことに対応する。

● 邪馬壹国以北には、検察将軍の 「一大率」 を順に派遣して、諸国の検察を行なう。
● 「一大率」 は、普段は、伊都国に勤めていて、入出国輸出入の管理を行なう。


5.24 「下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫
    比如然諾」


身分の低い人が、貴人と道で逢ったときには、後ずさりして、草の中に入り、
言葉を伝えたり、事を説明するときには、
蹲ったり跪いたりし、両手を地面について、恭敬の意を表し、
答えるときには、「わかりました」 というように、「あい」 という。

ここで、「下戸」 が、「逡巡入草(後ずさりして草の中に入る)するのは、
道を空けて、「大人」 に道を譲るためである。

● 身分の低い人は、貴人に対して、礼儀正しい。


5.25 「其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王名曰卑彌
    呼事鬼道能惑衆年已長大無夫壻有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自
    侍唯有男子一人給飮食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞」


その国も元は男子を王として、(倭暦の2倍年暦)70~80(2倍数)続いたが、
倭国は、乱れて、互いに、攻撃しあうようになり、何年か過ぎた。
そこで、諸国は、共同して、特別の女子を立てて王にした。
その名を卑彌呼といい、鬼神を祭り、人々を惑わす能力があった。
既に、高齢であるが、夫はなく、男弟がいて、国政を助けている。
卑彌呼が、王になってから、会ったものは少なく、婢 1,000人を侍らせているが、
ただ、男子が 1人いて、飲食物を運び、言葉を伝え、居処を出入りする。
宮室楼観は、城柵で厳重にしており、常に武器を持ち、守衞する人がいる。

其國本亦以男子爲王」 とは、後漢朝に、朝貢(西暦107)した倭国王帥升のこと。
一女子」 の 「」 は、「一大事一大発見」 の 「」 のように、「特別」 の意味。
この視察のとき(西暦240)に、卑彌呼が、「年已長大」 であったのは、王に共立
された倭国大乱終結後(西暦190年頃)から、(魏暦)50年経過しているためで、
例えば、卑彌呼が、下記項目 5.35 の壹與と同じく、(倭暦の2倍年暦)13(2
)
の頃に共立されたとすれば、この時、(倭暦の2倍年暦)113(2倍数)
共立された女王卑彌呼は、商()代の祭祀制度(鬼神崇拝)が伝来したかのように、
鬼神を祭る巫女であり、その神殿は、邪馬壹国の山側に在って、その麓では、「有男
弟佐治國
」 とあるように、今では、実際の政治を、摂政の 「男弟」 が行っている。
なお、この 「男弟」 と 「唯有男子一人給飮食傳辭出入居處」 の 「男子」 とは異る。

● 倭国大乱の前(西暦146年頃以前)は、(倭暦の2倍年暦)70~80(2倍数)
 間、倭国王帥升のような男王がいた。
● 「倭國亂相攻伐歴年」 の倭国大乱は、西暦146年頃~189年頃の 約40年間。
● 倭国大乱後、諸国は、特別の女子卑彌呼を邪馬壹国女王兼倭王に共立した。
● 卑彌呼が、商()に似た祭祀を行っているように、中国からの渡来人の 1つは、
 商人(殷の遺民)
● この時(西暦240)、卑彌呼は、高齢で、(倭暦の2倍年暦)113(2倍数)位。
● 女王卑彌呼には、夫がなく、邪馬壹国女王-男弟」 摂政体制で、倭を運営する。


倭人は、上記項目 5.1~5.13 に記した国のほか、その周辺の地にも居る。

5.26 「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘
    里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至」


女王国(邪馬壹国)の東方向へ、海を 1,000餘里(5倍数) 渡ると、
復た、皆、倭種の国が在り、
又、その南には、女王国(邪馬壹国)から、4,000餘里(5倍数) 離れた所に、
身長が 3~4尺の人の侏儒国が在り、
復た、その東南方向に、(倭暦の2倍年暦)船行 1(行程日数の5倍数)程で
行ける所に、又、裸国黒齒国が在る。

倭種の国侏儒国については、女王に従属していないため、船からの遠望に止めた。
裸国黒齒国については、女王に従属しておらず、
そこへ行くのに、(倭暦の2倍年暦)船行 1(行程日数の5倍数)程かかると、
聞いていたため、この視察では行かずに、「船行一年可至」 と表記した。

● 邪馬壹国から倭種の国までは、東方向へ、内海を渡海して、1,000餘里(5倍数)
● 倭種の国の南に在る侏儒国までは、邪馬壹国から、4,000餘里(5倍数)
● 侏儒国から裸国黒齒国までは、東南方向へ、外海を船行し、(倭暦の2倍年暦)
 1(行程日数の5倍数)程かかる。


5.27 「參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里」


実見した倭地は、離れた海中の洲島の上に在り、それが、切れたり連なったりして、
直径 5,000餘里(5倍数)程の周旋範囲内である。

山が、海面から突出したような、「山島」 の国の狗邪韓国對海国一大国、の先に
在る倭地は、海流川流等の陸化作用により、土砂が、堆積した洲のような、「洲島
で、すなわち、前200年頃に秦代の徐福が到った 「平原廣澤(氾濫川の流域)が在
るような島でできていて、また、それが 「或絶或連」 して、大きさは、直径 5,000
餘里(5倍数)程で、旋回した周旋範囲内なので、「周旋可五千餘里(5倍数)とした。
倭地の大きさ 「周旋可五千餘里(5倍数)を、同程度の大きさの韓地の 「方可四千
餘里
(5倍数)のように、表記しなかったのは、末盧国邪馬壹国の 2,000餘里
(5倍数)のほか、邪馬壹国の南に在る旁国21国、その南に在る狗奴国、また、邪馬
壹国の東へ渡海 1,000餘里(5倍数)に在る倭種の国、その南に在る侏儒国等を倭
地に含めると、形状が内海を囲む周旋状(円状)になり、方状ではないからである。
なお、倭地には、今回の視察で行っていない未知の裸国黒齒国を含めない。

● 倭地は、離れた海中で、「洲島」 が、切れたり連なったりして、周旋状(円状)
● 「洲島」 の倭地が、秦代の徐福が到ったとされる 「平原廣澤(氾濫川の流域)
 の在る地にふさわしいことから、中国からの渡来人の 1つは、徐人(徐福一行)
● 倭地は、直径 5,000餘里(5倍数)程の周旋範囲内。


今回の視察までの魏朝-倭の外交状況は、下記項目 5.28~5.31 の通り。

5.28 「景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都」


景初二年(西暦238)6月、実は、景初三年(西暦239)6月、倭の女王が、
大夫難升米らを(帶方)郡に派遣して、天子に詣り、朝献することを求めた。
(帶方郡)太守劉夏は、役人と将官を派遣し、彼らを(洛陽の)都に送り、詣らせた。

大夫難升米等」 のように、「」 の前にある 「難升米」 のような名前は、
代表者 1名の名前(以下、同じ)である。
ここで、「景初二年六月(西暦2386)とあるが、
下記項目 5.30 にある 「正始元年(西暦240)の前年の 「景初三年六月
(西暦2396)の誤植であり、その理由は、次の通り。
● 西暦204年に、公孫氏が、楽浪郡の南に、帶方郡を設置支配し、
 西暦236年に、燕王を名乗るようになって、魏と衝突し、
 西暦2388月に、魏朝将軍司馬懿により、滅ぼされるまでの不安定な情勢下
 では、戦地に赴くような、倭による西暦2386月の朝貢は、あり得ない。
● 魏が、公孫氏を討って、公孫氏の帶方郡を獲得するのは、西暦2388月であ
 るから、西暦2386月の時点では、魏の劉夏は、帶方郡太守に着任できない。
● 魏としては、倭が呉と組まないうちに、早く、倭を魏の傘下に入れるためには、
 倭の朝貢から時を隔てずに、下記項目 5.30 にある 「正始元年(西暦240)
 の答礼訪問をしたはずであるから、この倭による朝貢は、
 正始元年(西暦240)の前年 「景初三年六月(西暦2396)が妥当で、
 景初二年六月(西暦2386)からでは、間が空過ぎる。
● 下記項目 5.30 にある 「正始元年(西暦240)の答礼訪問は、初めての倭へ
 の旅であるから、旅のガイドとして、倭の使者らを同行させて送還するために、
 魏船(郡使船)出発の 「正始元年(西暦240)まで、帶方郡に、倭の使者らを
 滞在させることになるので、その滞在期間は、
 正始元年(西暦240)の前年の 「景初三年(西暦239)からとするのが、
 妥当であり、「景初二年(西暦238)からとするのでは、長過ぎる。


5.29 「其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難
    升米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰
    遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太
    守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲率
    善中郎將牛利爲率善校尉假銀印靑綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹【臣松之
    以爲地應爲漢文帝著衣謂之弋是也此字不體非魏朝之失則傳冩者誤也】絳
   十張絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細
    班華五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五十斤皆裝封付
    難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也」


その年(西暦239)12月の詔書は、倭の女王に、次のように報じた。
『親魏倭王卑彌呼に、制詔する。
帶方()太守劉夏が、使者を派遣して、汝の大夫難升米次使都市牛利を送り、
汝が献上するところの男の生口 4女の生口 6班布 22丈を奉じさせた。
汝は、遥か遠くに居るにも拘らず、使者を遣わし朝貢してきたのは、汝の忠孝なり。
私は、汝を甚だ哀れみ、このたび、汝を親魏倭王と為すによって、
金印紫綬を裝封して、帶方()太守に託し、汝にそれを仮授する。
種族の人々をいたわり、勉めて孝順となせ。
汝の使者である難升米(都市)牛利は、遠路やってきて、ご苦労であった。
このたび、難升米を 「率善中郎將」 に、(都市)牛利を 「率善校尉」 と為すによっ
て、銀印靑綬を仮授し、引見して労い、(使者を派遣して)送還させる。
今、絳地交龍錦 5匹【臣の松之が思うに、地は、とすべきで、漢の文帝が着た
衣を戈といったが、それがこれである。 この体をなさない字は、魏朝の過失
でなく、伝写した者の誤りである。】絳地 1050紺青 50
を以って、汝が献じた貢物に直に答える。
又、特に、汝には、紺地句文錦 3細班華 5白絹 508
5尺刀 2銅鏡 100真珠鈆丹 各50斤を下賜する。
皆、裝封して、難升米(都市)牛利に託す。
帰ってから、すべてを目録通り、受け取り、汝の国中の人々に示し、
魏朝が、汝を憐れんでいることを、知らしめよ。
そのために、丁重に、汝に好物を賜うのである。』

倭を味方に付けるため、魏朝は、過分な感状の詔書により、
倭の貢物に答える賜物に加えて、女王個人への好物も下賜した。
また、女王卑彌呼を 「親魏倭王(金印紫綬付き)としただけでなく、使者の難升米
都市牛利に対しても、夫々、「率善中郎將率善校尉(銀印靑綬付き)とした。
ここで、「汝大夫難升米」 とあるのは、女王卑彌呼の親書がなく、大夫難升米が、
女王卑彌呼の言葉を伝えるからで、宮殿の内務官職の 「率善中郎將」 に符合する。
しかし、魏朝が、倭の使者に対して、勝手に魏の官職を与えたことや、
大夫」 ではなく、「次使」 とある都市牛利(省略形を 「牛利」、大夫難升米を護衛
するために同行)に対しても、千人兵隊長職の 「率善校尉」 にしたこと、につい
ては、倭の伊都国王や邪馬壹国の無印綬の高官からの反発が、予想されるものの、
この魏朝の制詔を、倭王が受諾すると、倭が、魏の傘下に入ったことになる。
また、倭の使者に対して、「遣還」 とあるように、
魏が、使者を派遣して、倭の使者を送還するということは、
逆に、帶方郡の使者が帰還するときには、
当然、倭が、使者を派遣して、帶方郡の使者を送還しなければならない。


5.30 「正始元年太守弓遵遣建忠校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛
   刀鏡采物」


正始元年(西暦240)(帶方郡の)太守弓遵が、「建忠校尉」 梯儁らを派遣し、
詔書印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮(魏朝から見て、格下への拝謁)し、
併せて、詔書を読み上げ、金()采物(採集物)を下賜した。

帶方郡の太守は、前年(西暦239)の劉夏から、弓遵に交代し、使者を、倭の
率善校尉」 都市牛利と同格の 「建忠校尉」 梯儁とし、将兵を引率させた。
上記項目 5.29 で、「假授」 した詔書印綬下賜品(ここに記述されているのは、
女王卑彌呼個人向けのみで、他の賜物は省略)は、今回の視察の西暦240年に、
帶方郡の使者が持参し、責任を持って、送達したのである。


5.31 「倭王因使上表荅謝詔恩」


倭王は、使者により、詔書に対する感謝の答礼を上表した。

上記項目 5.30 (今回の視察の西暦240)で、帶方郡の使者が送達した詔書
に対し、この倭王による答礼は、今回の視察の復路(西暦241)で、倭の使者
(上記項目 5.28・5.29 と同じ大夫難升米らで、冗長になるため省略)が上表。
このように、帶方郡の使者は、魏朝の詔書賜物を責任を持って、送達し、
倭の使者は、倭王の答礼を責任を持って、上表するのである。
この倭の使者が、倭王の答礼を上表したことにより、倭が、魏の傘下に入った。
これで、今回の視察の目的は、達せられた。


その後の魏朝-倭の外交状況は、下記項目 5.32~5.36 の通り。

5.32 「其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳靑緜衣帛布丹木
    拊短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」


その(正始)四年(西暦243)、倭王が、復た、使者の大夫伊聲耆掖邪狗ら 8人を
派遣してきて、生口倭錦絳靑緜衣木拊短弓矢を献上した。
(伊聲耆)掖邪狗ら一同は、「率善中郎將」 の印綬を受け取った。

上記項目 5.30・5.31 のときに注目した項目 5.15 の 「木弓竹箭」 と、項目
5.16・5.18 の 「朱丹」 を、「木拊短弓矢」 と 「」 として、献上させた。
大夫伊聲耆掖邪狗」 とは、筆頭使者 1名の名前であり、「掖邪狗」 は、省略形。
派遣された新参大夫 8人とも、上記項目 5.29 の難升米と同じ 「率善中郎將」 の
印綬を受けたが、仮に、次使が 「率善校尉」 都市牛利ならば、新たな印綬はない。
これを知った倭は、下記項目 5.36 の次回朝貢では、使者を 20人に増員する。
なお、魏朝は、上記 「率善中郎將」 の印綬だけではなく、上記項目 5.29 と同様、
貢物に対する賜物を下賜し、その賜物と魏朝の詔書を、帶方郡の使者(上記項目
5.30 と同じ使者 「建忠校尉」 梯儁ら)が、倭にもたらすが、冗長になるため省略。


5.33 「其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授」


その(正始)六年(西暦245)に詔して、倭の難升米に黄幢を下賜し、
(帶方)郡に託して、仮授させた。

黄幢(魏の軍旗)を倭の難升米に下賜するに至る経緯は、省略したが、次の通り。
上記項目 5.32 の正始四年(西暦243)の倭による朝貢に対して、
翌年の正始五年(西暦244)に、魏朝から賜物を倭王に下賜し、
その翌年(本年)の正始六年(西暦245)に、倭の使者難升米らによって、
倭王の答礼が、魏朝に上表された。
その答礼上表の中に、『倭の敵(狗奴国)に対しても、魏朝の威光を示したい』旨
の表現があり、倭王が魏朝に 「黄幢」 の貸与を請願したものと、受け取った。
ときの帶方郡太守は、この詔書黄幢」 を、倭の難升米らに仮授したが、
韓地制圧に忙殺され、倭にもたらす機会を逸し、帶方郡に保管したままになった。


5.34 「其八年太守王到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯烏越
    等詣郡説相攻撃状」


その(正始)八年(西暦247)(帶方郡)太守王が、着任した。
狗奴国の男王卑彌弓呼と以前より争っていた倭の女王卑彌呼は、
倭の載斯烏越らを派遣して、(帶方)郡に詣らせ、攻撃しあった状況を説明させた。

帶方郡太守の交代があったため、倭の使者が、新任太守に、狗奴国との戦況を説明
したとき、上記項目 5.33 で、前の太守弓遵から難升米に仮授された詔書黄幢
について督促したことで、下記項目 5.35 のように、倭にもたらすことになった。
相攻撃状」 の説明内容は、省略したが、要旨は、次の通り。
● 西暦146年頃、倭国大乱で、倭が、狗奴国の地に侵攻し、敗北。
● 西暦150年頃、狗奴国が奴国に進入してきたが、消耗戦で撃退、故地を奪還。
● 西暦160年頃、倭軍の強化再編を行ない、倭が、狗奴国の地に本格侵攻。
● 西暦189年頃、倭が、狗奴国を、倭地南端の大隅僻地に追い込む。
● 昨年西暦246年頃、女王卑彌呼の()摂政の 「男弟」 を、狗奴国に追放。
● 来年西暦248(女王卑彌呼の存命中)には、狗奴国を滅ぼしたい。
この正始八年(西暦247)は、本来は、第3次朝貢の年回りであったが、
正始六年(西暦245)に難升米に仮授された 「黄幢」 が、
帶方郡太守弓遵から未だ送達されず、また、帶方郡太守が、王に交代したため、
倭王卑彌呼は、第3次朝貢を延期し、
代りに、新任太守王への戦況報告と称して、「黄幢」 督促を命じた。


5.35 「遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百
    餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗
    女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與」


(帶方郡太守王)塞曹掾史」 張政らを派遣し、詔書黄幢をもたらしたことで、
難升米に拝仮(魏朝から見て、格下への拝謁)し、檄文を為して、告諭した。
卑彌呼の死では、径 100餘歩(5倍数)の冢を大作し、殉葬者が奴婢 100餘人。
あらためて男王を立てたが、国中が服従せず、更に、互いに罪をとがめて、
殺しあうことが続き、そのとき、殺されたものは、1,000餘人に達した。
(それで)復た、卑彌呼の一族の少女壹與、年が(倭暦の2倍年暦)13(2倍数)
を立てて王にしたところ、国中が、ようやく定まった。
(帶方郡の使者、張)政らは、檄文で、壹與に告喩した。

帶方郡が、使者 「塞曹掾史(辺境地部門長)張政(省略形を 「」 という)らを倭
に派遣したのは、上記項目 5.34 の翌年の正始九年(西暦248)のことで、
卑彌呼は、(倭暦の2倍年暦)129(2倍数)位で、既に、病床に就いていたため、
使者張政らは、一旦、難升米に、拝仮(魏朝から見て、格下への拝謁)し、
檄文」 を為して、告諭したが、
卑彌呼が死に、復た、(倭暦の2倍年暦)13(2倍数)の壹與が、倭王になった
とき、改めて、「檄文」 で、壹與に告諭したのである。
檄文」 の内容は省略したが、「黄幢」 の取扱いに関する次のようなことである。
● 「黄幢」 は、地に倒さず、敵に取られてはならないこと。
● 「黄幢」 により、魏軍の後ろ盾があることを示す以上、戦いに負けないこと。
● 戦いが終結すれば、「黄幢」 は、帶方郡に返却すること。
女王卑彌呼が死んだのは、帶方郡の使者張政らが詔書黄幢」 をもたらした
正始九年(西暦248)6月から、間もない頃のことである。
卑彌呼の死で、邪馬壹国女王兼倭王(卑彌呼)-摂政体制が崩れ、
伊都国王(男王)が、邪馬壹国王兼倭王に立って、内紛が起きたが、
鎮圧された同年 9月頃に、邪馬壹国女王兼倭王(壹與)-摂政体制に戻った。


5.36 「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人
    貢白珠五千孔靑大句珠二枚異文雜錦二十匹」


壹與は、倭の大夫 「率善中郎將」 掖邪狗ら 20人を派遣して、(帶方郡の使者)
張政らを送還する便で、魏朝の宮廷に詣らせ、男女の生口 30人を献上し、
白珠 5,000靑大句珠 2異文雜錦 20匹を貢物とした。

上記項目 5.35 で、正始九年(西暦248)に、「黄幢」 が送達されたため、
倭王壹與は、取り急ぎ、その翌年の正始十年(西暦249)に、
黄幢」 の答礼上表と倭王交代(卑彌呼壹與)政権継承狗奴国征伐報告を兼ね、
3次朝貢(予定の 2年遅れ)を、帶方郡の使者張政らを送還する便で、行なった。
なお、倭の使者による帶方郡の使者の送還は、今まで、倭の使者が倭王の答礼を
上表するときに併せていたが、今回のように、朝貢のときに併せたのは、初めて。
壹與は、女王卑彌呼の存命中には、間に合わなかったが、
黄幢」 は、効果を発揮し、今回の朝貢までに、狗奴国を滅ぼすことに成功した。
狗奴国の遺民は、奴婢になった者を除き、倭地の南方東方の海上に、四散した。
今回の倭の使者貢物は、「黄幢」 の答礼を含み、過去最大規模のものとなった。
また、今回の倭による緊急朝貢に対し、その後、
魏朝による賜物の下賜送達、倭による答礼上表使者の送還等があるが、
上記項目 5.28~5.31 と同様であり、冗長になるため省略し、
倭人の条」 における外交状況は、ここまでとした。
司馬懿は、この年(西暦249)1月に、魏朝に対し、クーデターを起こした。


ページトップへ戻る