7.まとめ
★本小編 「倭地視察の旅 邪馬壹国コース」 は、魏朝帶方郡東夷調査官らの当時の視点を用いて作成したものであるが、主なポイントは、下記 #1~#15 の通り。
| # 1 | 今回の視察は、魏朝斉王曹芳(後見人:将軍司馬懿)の命令により、実施した。 |
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①この命令に答えるために、魏朝帶方郡東夷調査官らが、計画を立案し、現地を視察し、 その視察結果を、魏朝斉王の意向に沿うように、正確に報告すべきものである。 ②(外交目的) 魏朝に朝貢して来た邪馬壹国等、倭 30国全部に、答礼訪問すること。 倭が呉と組まないうちに、倭を必ず魏の傘下に入れること。 (戦略目的) 倭の領域・国力等、戦略的価値を調査すること。 魏船により倭地へ渡航する術を、倭の使者らから習得すること。 | |
| # 2 | 視察計画段階で、倭の使者から、倭の位置・行程・交通手段等の情報を得た。 |
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①倭の使者の大夫難升米らが来朝した 「景初二年六月」(西暦238年6月)は、実際は、 「正始元年」(西暦240年)の前年の 「景初三年六月」(西暦239年6月)の誤植であ るが、その時にもたらした最新の情報を尊重し、倭 30国全部を訪問し、倭の領域・ 国力等、戦略的価値を調査するために、都合の良い視察コース・日程を作成した。 ②魏朝は、西暦238年8月、(元)後漢朝遼東郡太守であった公孫氏を滅ぼして、公孫氏 が設置・支配していた帶方郡を獲得し、ここに太守を派遣して、韓地の支配と調査を 進めていたが、倭は、後漢朝に朝献(西暦107年)して以来、この公孫氏の韓地支配 (西暦204~238年8月)の間も、韓地の倭人が、辰韓を攻めて、辰韓中に弁韓の地を 拡大し、韓地の弁辰狗邪国を、倭の狗邪韓国(「韓」 地に在る狗邪国)とするに至る。 | |
| # 3 | 倭の地理上の道里・大きさ・行程日数 と 戸(家)数には、5倍数を用いた。 |
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①先に実施した韓の調査で、5倍数を用いたので、韓より遠方の倭でも、同様にした。 外交の国数や下賜品・貢物の数量・使者の人数については、外交記録や目録の記載数 通りとしたが、倭の地理上の道里・大きさ・行程の所要日数と戸数・家数については、 魏朝の威光を知らしめるために、支配領域の大きさを強調する 5倍数を用いた。 ②帶方郡から邪馬壹国までの往路行程の道里 12,000 餘里(5倍数)の内訳比率は、 韓地区分(帶方郡から狗邪韓国までの沿岸水行) 7,000餘里(5倍数) 58% 海峡区分(狗邪韓国から末盧国までの渡海) 3,000餘里(5倍数) 25% 倭地区分(末盧国から邪馬壹国までの陸行と水行) 2,000餘里(5倍数) 17% 例えば、倭地区分の基数は、400餘里であり、約170km。(魏代 1里=434.16m) | |
| # 4 | 視察の全行程には、倭人のガイドが付き、道標としてのランドマークに従う。 |
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①往路・復路とも、倭の使者をガイド役にする。 (場合により、倭の使者を人質にする) 倭の使者がもたらした情報を基に、作成された視察コースの日程・行程であるから、 倭の使者によるガイド無しで、勝手に行動することはない。 帶方郡⇔倭地を渡航する時期は、倭の使者の来朝時期と同じ 6月とする。 ②倭人のガイドは、6月の日出の方角を、東方基準(EからN側へ 29度ずれる)とし、 道標として、遠方からでも目視できるランドマークを決めていて、 これを辿れば、帶方郡⇔倭地を往復できる。 特に、韓地より遠方の倭地では、道標としてのランドマークが不可欠。 道里・方向は、各行程における始点⇒終点ランドマーク間の総直線距離・方向を示す。 | |
| # 5 | 全行程における道里(基数)・方向(6月の東方基準による)は、現代と一致。 |
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①視察全行程の概要は、次の通り。 ● 帶方郡~狗邪韓国の韓地では、倭と戦争状態にある辰韓の領域内通行を避け、魏 船(郡使船)で韓地の沿岸を馬韓諸国に寄港しつつ、食糧・水を補給しながら行く。 ● 狗邪韓国~末盧国の海峡では、魏船(郡使船)で途中、對海国・一大国の各国に上陸 し、その国都を訪問しながら行く。 ● 倭地では、末盧国に上陸した後、陸路での訪問・視察を行なうが、魏船(郡使船)は、 伊都国の港に回送して、入国検査を受け、復路出発の時まで、その地に繋留する。 ● 邪馬壹国より北に在る末盧国~投馬国については、復路には、その国都を通らな いため、邪馬壹国に至る往路の中で素通りせずに、すべての国都を訪問して行く。 ● 陸路中心の往路の中でも、特に、不彌国~投馬国周辺では、河川・湿地が多いため、 川舟を用いて、自力や曳航で水行する。 ● 邪馬壹国より南に在る旁国21国については、邪馬壹国滞在期間中に、その各国都 を陸路によって、順に訪問する。 ● 倭 30国以外で、邪馬壹国と戦争状態にある狗奴国や不詳とする倭種の国・侏儒 国については、邪馬壹国滞在期間中に行くが、領域内に入らず遠望するに止める。 ● 倭船による船行で、遠過ぎる裸国・黒齒国については、帰還できないリスクが大き いため、この視察では行かない。 ②道里(基数)・方向(6月の東方基準による)通りに進行すると、邪馬壹国の都として、 現代の大分県由布市庄内町渕山井(大分川中流部の河岸段丘⇒発掘要)に到着する。 都のある大分川中流部は、深く侵食したの峡谷の形態で、天然の要害になっている。 ③主な国々の現代の地名による比定地は、次の通り。 ● 帶方郡 郡治・港 開城市 (朝鮮民主主義人民共和国) ● 狗邪韓国 国都・港 巨済市南洞里 (大韓民国) ● 對海国 国都・港 対馬市厳原町小茂田 ● 一大国 国都・港 壱岐市芦辺町~石田町 ● 末盧国 国都・港 唐津市菜畑 ● 伊都国 水道西 糸島市船越湾 (糸島水道西口) 国都・河岸 福岡市早良区早良 (室見川) 港・水道東 福岡市西区今津湾 (糸島水道東口) ● 奴国 国都・河岸 筑紫郡那珂川町王塚台 (那珂川) ● 不彌国 国都 糟屋郡宇美町宇美 河岸 大野城市御笠川 (御笠川) ● 投馬国 国都・河岸 うきは市浮羽町 (筑後川) ● 邪馬壹国 河岸 日田市天瀬町馬原 (玖珠川) 国都・神殿 由布市庄内町渕山井 (大分川中流部の河岸段丘) 河岸 大分市国分~由布市挾間町 (大分川) 港 大分市王子港町 ● 斯馬国 国都・港 延岡市島浦町 ● 奴国分国 国都・港 宮崎市・日南市 ● 狗奴国 国都・河岸 鹿屋市 (肝属川) ● 倭種の国 国都・港 柳井市 (船上より遠望) ● 侏儒国 国都・港 須崎市 (船上より遠望) ● 裸国 国都・港 八丈島 (伝聞) ● 黒齒国 国都・港 八丈小島 (伝聞) ランドマークの 「星岳」 から見た邪馬壹国の都の全景 (Google Earthの画像) ![]() | |
| # 6 | 倭人は、帶方郡東南の大海中に在る倭地に居るが、韓地の南海岸にも居る。 |
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①倭人は、国でいえば、韓地の南海岸近海に在る狗邪韓国、海峡に在る對海国・一大国、 倭地に在る末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国・邪馬壹国・旁国21国 等、 今回魏朝に朝貢して来た 30国(全体の国号を 「倭」 という) と、 狗奴国・侏儒国・倭種の国と、隔地に在る裸国・黒齒国にも居住し、合計 35国に亘る。 ②旁国21国は、斯馬国・已百支国・伊邪国・都支国・彌奴国・好古都国・不呼国・姐奴国・ 對蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・爲吾国・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・ 支惟国・烏奴国・奴国(伊都国の隣の奴国とは別に在る奴国分国) 等、21国のこと。 ③倭の北限は、韓地に近い狗邪韓国、南限は、旁国21国の中の奴国(奴国分国)である。 | |
| # 7 | 倭地は、洲島の集合で、魏・韓地に比べて温暖、その大きさは、韓地程度。 |
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①倭 30国のうち、韓地の南海岸近海に在る狗邪韓国と海峡に在る對海国・一大国は、 山が海面から突出したような 「山島」 の国であるが、海峡の先の末盧国以下の国は、 海流・川流等の陸化作用により、土砂が堆積した洲のような 「洲島」 の倭地に在る。 その 「洲島」 が 「或絶或連」 した倭地は、 末盧国から邪馬壹国までの道里、2,000餘里(5倍数)のほか、 邪馬壹国の南に在る旁国21国、更に、その南に在る狗奴国、 邪馬壹国の東へ渡海、1,000餘里(5倍数)に在る倭種の国、その南に在る侏儒国、 等を含めると、倭地の形状は、内海を囲む周旋状(円状)になっている。 ②その倭地の大きさは、直径 5,000餘里(5倍数)=1,000餘里(基数)=約430km で円状に旋回した周旋範囲内 「周旋可五千餘里」であり、一辺 4,000餘里(5倍数) の方状の正方範囲内 「方可四千餘里」 のような韓地と同程度の大きさである。 ③海峡の先に在る倭地とは、帶方郡から、12,000餘里(5倍数)=2,400餘里(基数) =約1040km の所にある邪馬壹国を含み、北緯30度・東経120度 に在る呉の地、 會稽(現代の中華人民共和国淅江省紹興市)の東方に位置(「在會稽東治之東」)し、 魏・韓地に比べて温暖であること 等から、 倭地の範囲は、ほぼ 北緯31~34度・東経130~133度 に在る現代の九州地方と 中国・四国地方の一部を含む地域を指すことになる。 | |
| # 8 | 倭の主要 9国だけで、人口は、148,000人程、兵員数は、40,000人程。 |
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①人口(倭の戸数は、韓と同程度) 倭の狗邪韓国~邪馬壹国の主要 9国だけで、戸数合計は、148,000餘戸(5倍数) であり、140,000~150,000餘戸(5倍数)の韓と同程度で、推定人口としても、 通常の戸数(住居数)の 5倍(5人/戸) 程である。 従って、倭の人口には、上記戸数合計 148,000餘戸(5倍数)の 5倍(5人/戸) 程 の 740,000餘人(5倍数)=148,000人(基数) 程が見込め、 その半数が生産力になると推定できる。 ②兵員数(辰韓・弁韓と同じ割合、50人/家 で推定) 戸数が住居数を示すのに対し、一大国の 3,000許家(5倍数)と不彌国の 1,000 餘家(5倍数)の家数合計 4,000餘家(5倍数)は、兵役等の賦役で召集された人の 宿舎数を示しており、その人は、出身国の戸数中に含まれているが、家の収容人数 は、辰韓・弁韓の例(10戸/家)からみて、50人/家 程である。 従って、兵員数に、上記家数合計 4,000餘家(5倍数)の 50倍程の 200,000餘 人(5倍数)=40,000人(基数) 程を見込むことができる。 | |
| # 9 | 倭の文化水準は、魏より低く、倭暦は、魏暦の 「正歳」 でなく、2倍年暦。 |
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①倭の文化水準は、魏より低く、呉支配の儋耳・朱崖のレベルと同程度。 海峡に在る對海国・一大国の倭人は、「南北市糴」 により、渡海・操船技術に長じる。 倭の地に牛・馬がいないので、移動手段に使えない。 倭に鉄・銅の鉱山はなく、水銀が採れるが、資源・産物について、魏に無い物なし。 倭の武器の矛・盾・鏃は、魏と同様、既に鉄製であるが、弓矢の構造は、魏と異る。 ②倭暦は、魏暦の 「正歳」 でなく、春分⇒秋分の耕作期、秋分⇒春分の収穫・争奪期を 各 1年とする 2倍年暦(魏暦 1年=倭暦 2年)を用いている。 秦朝のとき、徐福が当地に長生不老の霊薬を求めたとされているように、もとより、 倭人は長寿とされていたので、倭人の言を尊重して、そのまま(倭暦)を筆録した。 | |
| #10 | 倭は、邪馬壹国女王兼倭王(卑彌呼)- 「男弟」 摂政体制 で運営されている。 |
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● 伊都国には、代々、邪馬壹国に従属する王がいる。 ● 邪馬壹国以北には、行政官 「大官」・「副」 を置き、邪馬壹国・伊都国以外、国王なし。 ● 海を渡って中国へ詣るには、倭地では、残った一族の中から男の人質を取る。 ● 身分の低い人は、貴人に対して、礼儀正しい。 ● 罪人の妻子・家族・一族を奴婢として、没収する連座制により、倭の治安は良い。 ● 税として、租(収穫物)や賦役(兵役)がある。 ● 市が立つ所に、税務官の 「大倭」 を置いて、租税から漏れる交易を取り締まる。 ● 邪馬壹国以北には、検察将軍の 「一大率」 を順に派遣して、諸国の検察を行なう。 ● 「一大率」 は、普段は、伊都国に勤めていて、入出国・輸出入の管理を行なう。 ● この視察のとき(西暦240年)、卑彌呼は、(倭暦の2倍年暦)113歳(2倍数)位。 ● 女王卑彌呼には、夫がなく、世継ぎができないため、死後、内紛が起きる可能性大。 | |
| #11 | 倭人のルーツは、中国からの渡来人を受け入れた倭地の縄文文化先住民。 |
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● 大陸と九州が、温暖化海進により、分かれる(西暦前10,000年頃)前から居た 九州の縄文文化先住民(推定約 2,000人)が、倭人のルーツ。 ● 倭に商(殷)代に似た占いがあり、女王卑彌呼が、商(殷)代に似た祭祀を行ない、 倭地では、皆、身体に白粉でなく、商(殷)代由来の丹(辰砂)から作られた装身用 紅色泥土を塗っているように、中国からの渡来人の 1つは、商人(殷の遺民)。 ● 倭の使者が身体に刺青をし、皆大夫夏后少康の子孫であると自称するように、 中国からの渡来人の 1つは、越人(越の遺民)。 ● 「洲島」 の倭地が、秦代の徐福が到ったとされる 「平原廣澤」(氾濫川の流域)の 在る地にふさわしいことから、中国からの渡来人の 1つは、徐人(徐福一行)。 | |
| #12 | 第1次朝貢外交 (西暦239~241年) |
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● 倭の使者が帶方郡に詣るのは、6月(以後の使者の往来は、同月のため省略)。 ● 倭の使者が魏朝に朝献するときの窓口は、帶方郡太守。 ● 帶方郡に到着した倭の使者を、帶方郡の役人と将官が洛陽の都に送り届ける。 ● 魏朝の詔書・賜物は、12月(以後同月のため省略)、倭の使者に 「假授」 する。 ● 倭王の朝貢親書がないため、倭の使者の大夫が、倭王の言葉を上表する。 ● 相手方の使者が帰還するときには、使者を派遣して、相手の国まで送還する。 ● 帶方郡の使者は、魏朝の詔書・印綬・賜物を持参して、倭王に送達する。 ● 帶方郡の使者は、詔書を読み上げ、倭王に下賜して、「假授」 を実体化する。 ● 魏朝の詔書に対しては、倭王の答礼(返答)が必要。 ● 倭王の答礼にも親書がないため、倭王の言葉を上表する大夫を派遣させる。 ● この倭の使者が、倭王の答礼を上表したことにより、倭が、魏の傘下に入り、 今回の視察の目的は、達せられた。 ● 倭王の答礼を上表した後の使者は、(省略されているが)自身で帰還する。 | |
| #13 | 第2次朝貢外交 (西暦243~244年) |
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● 魏朝は、貢物について、「木拊短弓矢」・「丹」 のように、指定することもある。 ● 魏朝は、新参使者には、印綬を授ける。 | |
| #14 | 「黄幢」 外交 (西暦245~248年) |
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● 「黄幢」(魏の軍旗)の下賜についても、魏朝の詔書がある。 ● 詔書・「黄幢」 は、託される帶方郡の都合で、倭への送達が遅れることがある。 ● 帶方郡からの送達が遅れているときは、帶方郡に督促できる。 ● 帶方郡への督促は、太守交代等の機会に、戦況説明等の形を採る。 ● 帶方郡は、倭へ賜物を送達する機会を使って、倭の動向を継続して査察する。 ● 帶方郡から 「黄幢」 等の送達が遅れ、魏朝の詔書の日付が古くなったときは、 帶方郡の使者が、「檄文」 等の文書を為して、日付を更新する。 | |
| #15 | 第3次朝貢外交 (西暦249年) |
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● 倭王交代・政権継承等の魏朝への報告(朝貢)は、緊急を要する。 ● 新たな朝貢のときに、前回の答礼上表と使者送還を行なうことができる。 | |
★本小編 「倭地視察の旅 邪馬壹国コース」 では、下記各項目に言及したので、
「倭人の条」 における不明瞭さをいくらかでも軽減し、当時の倭をイメージし易く
なったのではないかと思う。
| 1.視察の目的 | 2.時代背景 | 3.コース計画 | |||
| 1.1 | 外交目的 | 2.1 | 時代背景 | 3.1 | コース全貌 |
| 1.2 | 戦略目的 | 2.2 | 旅のリスク回避ポイント | 3.2 | 日程と行程 |
| 3.3 | 水行と陸行 | ||||
| 4.視察結果 | 5.「倭人の条」 全文(倭訳・補足付き) | ||
| 4.1 | 倭の外交関係 | 5.1 -5.10 | 倭人の主たる国邑状況 |
| 4.2 | 倭地への行程 | 5.11-5.14 | 倭地に在るその他の国邑 |
| 4.3 | 倭の領域 | 5.15-5.25 | 倭に来てわかったこと |
| 4.4 | 倭の国力 | 5.26-5.27 | 倭人は周辺の地にも居る |
| 5.28-5.31 | 今回の視察までの魏朝-倭の外交状況 | ||
| 5.32-5.36 | その後の魏朝-倭の外交状況 | ||
| 6.考察(後世比較) | |
| 6.1 | 「倭人の条」 に、魏朝-倭の外交史を記述した理由 |
| 6.2 | 「倭人の条」 に、今回の視察より後の魏朝-倭の外交史が追加された理由 |
| 6.3 | 魏朝-倭の外交史のまとめ と 魏朝外交ルール |
| 6.4 | 魏朝-倭の外交年表 |
| 6.5 | 「倭人の条」 に、戦略記事として、倭の地理・産物を記した理由 |
| 6.6 | 「倭人の条」 に、倭の地理・産物以外に、倭の文化・習俗を追加した理由 |
| 6.7 | 往路・復路の日程を、6月にした理由 |
| 6.8 | 行程の方向決定に用いた 6月の東方基準(日出の方角)と方位の許容範囲 |
| 6.9 | 倭の地理上の数値と戸数に 5倍数を用い、倭での年数に 2倍数を用いた理由 |
| 6.10 | 魏代で用いた尺度 |
| 6.11 | 行程で使い分ける標準速度・速度比 |
| 6.12 | 上記項目 6.11 の標準速度で、「E輿陸行」/「D川舟水行」=0.8 とした理由 |
| 6.13 | 各行程における所要 「日数」 とその速度区分 |
| 6.14 | 倭地(不彌国⇒投馬国⇒上陸地)で、「D川舟水行」 を行なう理由 |
| 6.15 | 倭地の外海(侏儒国⇒裸国・黒齒国)を、「H倭船船行」 で行く可能性 |
| 6.16 | 倭地への行程で用いた道標としてのランドマーク |
| 6.17 | 上記項目 6.16 の行程・ランドマークを辿る |
| 6.18 | 主体となる倭地 |
| 6.19 | 倭の範囲 |
| 6.20 | 「倭人の条」 にある各国の推定地 |
| 6.21 | 倭のシステムのまとめ |
| 6.22 | 倭の歴史推定 |
| 6.23 | 倭の歴史年表 |
| 6.24 | 上記項目 6.23 「倭の歴史年表」 における倭の変遷図 |
| 6.25 | 上記項目 6.24 「倭の変遷図」 から推定される倭のその後 |
★しかし、魏朝帯方郡の東夷調査官代行の小職としては、この 「倭人の条」 における
倭のイメージが、その後の日本で記述された 「古事記」 において、どのように表さ
れているのか気になるところではある。
それで、小職は、次は、リンク先の 「古事史伝 古事記神代編」 において、大和朝廷
外記庁語部の史生(記録係)代行になり、「古事記」 を照査するときに、「倭人の条」
との整合性についても、考察を加えるつもりである。
★関連情報は、以下の通り。
●『歴史読本』編集部編,「ここまでわかった!邪馬台国」,2011年,新人物往来社
● サイト『魏志倭人伝をそのまま読む』,「魏志倭人伝(紹煕本)」
http://www.himiko-y.com/scrp3/wajinden_pdf/shoukibon.pdf
● サイト『邪馬台国とは何だろうか?』,「三国志魏書東夷伝」
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/gisi-toi.html
● サイト『蜀漢資料室』,「三國志官職表」
http://hp.ato.jpn.com/shiryou/kansyoku/index.html
● サイト『ウィキペディア』,「中国の官職」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「刺史」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「魏志倭人伝」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「倭・倭人関連の中国文献」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「倭・倭人関連の朝鮮文献」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「魏略」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「元号一覧(中国)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「景初暦」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「九章算術」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「軍隊の編制」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「倭国大乱」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「帯方郡」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「巨済島」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「済州島」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「夏(三代)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「殷」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「周」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「春秋時代」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「越」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「秦」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「前漢」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「後漢」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「三国時代(中国)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「魏(三国)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「呉(三国)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「蜀漢」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「徐福」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「帥升」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「司馬懿」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「稲作」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『ウィキペディア』,「鉄」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
● サイト『地質調査総合センター(GSJ)』,岸本文男著,「中国史にみる水銀鉱」,地質ニュ
ースNo351,1983年11月号
http://www.gsj.jp/publications/pub/chishitsunews/news1983-11.html
● サイト『神奈備』,丹生都比売伝承 「丹生都比売を祀る神社一覧」
http://kamnavi.jp/ny/nyuiti.htm
● サイト『江戸の数学』,「測量の方法」
http://www.ndl.go.jp/math/s1/c7.html
● サイト『こよみのページ』,「日出没時刻・方位角」
http://koyomi.vis.ne.jp/sub/sunrise2.htm
● サイト『日本海洋データセンター(JODC)』,「経緯度1度メッシュの海流統計」
http://jdoss1.jodc.go.jp/data/current/stat-o-cur_j.html
● サイト『日本財団図書館』,関東小型船安全協会編,「気象海象のはなし」
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2006/00300/contents/0005.htm
● サイト『邪馬台国の会』,邪馬台国里程論争 「距離の尺度」,第275回講演会
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku275.htm
● サイト『邪馬台国は何処にあったのか?』,「魏の使節の乗り物・交通機関」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~smkodai/23norimono.html
● サイト『邪馬台国と大和朝廷を推理する』唐代の陸行・水行速度,「女王台与の都」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~iichirou/sub8.html
● サイト『海水を湛えた筑紫の海』,伊藤久著,「古代九州物語」,2010年
http://www.snk.or.jp/cda/kodaikyushu.pdf
● サイト『北部九州河川利用協会』,今村瑞穂著,「筑後川の成り立ちと農業生産活動」
http://www.nriver.jp/jouhou01-1.html
● サイト『西田進のホームページ』,「九州太宰府」
http://www.nishida-s.com/main/categ4/dazaifu/dazaifu.htm
● サイト『筑紫野市のホームページ』,「筑紫野市の概要」
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/data/open/cnt/3/667/1/
H25-1bu.pdf
● サイト『海から見た日本列島』,「博多湾と有明海を結ぶライン」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/
● サイト『海から見た日本列島』,「博多湾と有明海は川で結ばれていた」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/
● サイト『海から見た日本列島』,「現在も博多湾と有明海は川の水路でつながっていた」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/
● サイト『ちくしの散歩』,「三笠・那珂堀川運河」
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo54.htm
● サイト『KONEST』,「日本語表記の韓国地図」
http://map.konest.com/darea/9
● サイト『Mapion』,「3D風の都道府県地図」
http://www.mapion.co.jp/map/japan.html
● サイト『日本国土地理院』,「標高がわかる地理院地図」
http://saigai.gsi.go.jp/2012demwork/checkheight/index.html
● サイト『Mapion』,「キョリ測β」
http://www.mapion.co.jp/m/route/35.65484_139.75481_2/
● サイト『Google Earth』,「ストリートビュー地図」
http://www.google.co.jp/intl/ja/earth/index.html
● サイト『Yahoo!』,「山の高さの表記があるYahoo!地図」
http://maps.loco.yahoo.co.jp/
● サイト『露草色の郷』,「国郡沿革表・九州地方」
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/kokugun9.html
● サイト『静岡県のホームページ』,「電子国土の地名検索」
http://www.pref.shizuoka.jp/kensetsu/ke-520a/map/c_search/
c_search.html
● サイト『日本辞典』,「日本地名由来辞典」
http://www.nihonjiten.com/gogen/chimei_kyushu/index.html
● サイト『C++Builderの小部屋』,「白地図KenMap」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~t-kamada/CBuilder/progfram.htm


